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『自由の社会学』

 

橋本努著・NTT出版・201012

 

はじめに

 


 

 自由な社会は、いかにして可能であろうか。この問いをめぐって、あらたな理論と、仮説的で体系的なビジョンを展開しようというのが、本書の企てである。

 第1章の理論編では、「自由とはなにか」という素朴な問いに向き合いながら、自由論の理論的刷新を試みている。本当の自由とは、リアルな自由、実質的な自由であるとして、では実質的な自由を実現するためには、どんな社会が必要なのか。本書の主張は、きわめて単純である。実質的な自由を実現するためには、三つの原理が必要である。すなわち、「卓越(誇り)」原理、「生成変化」原理、および「分化」原理である。この三つの原理によって成り立つ社会こそ、真の自由を構成することができる。このいわば「自由の三つの原理」論が、本書の中核をなしている。

つづく第2章以降は、これらの三つの原理を応用した実践編になっている。自由な社会を築くための統治術とは、どんなものか。リアルな自由は、微視的な統治術によって可能になる。実践編では、知恵を絞っていろいろな提案をしている。

 自由は、規制や束縛を何でも取り払えば実現するというわけではないだろう。すべてを取り払ってしまえば、自由はかえって実感できなくなってしまう。むしろ自由な社会は、三つの原理をさまざまに応用することによって可能になる。これが本書の基本的なテーゼである。その背景には、ジンメル(一八五八−一九一八)の大著『社会学』における自由社会の探究がある。ジンメルの手法を継承する点で、本書はジンメル主義の末裔ともいえるだろう。

 実質的な自由の問題を突き詰めて考えていくと、私たちは結局のところ、イマジネーションの問題に行き着くように思われる。例えば、川の魚は、自由に泳いでいるつもりでも、その川のなかから逃れることができない。だから魚は自由ではない、と言われるかもしれない。ではその魚は、いかにして自由になれるのだろうか。イマジネーションによって、その答えは異なってくるだろう。たとえばもしその魚が、その川を越えて自由に泳ぐことができたとしたら、どうであろう。むろんそんな問題を考えても、あまり意味がないと思われるかもしれない。けれどもこうした問いは、「自由になるためのイマジネーション(=構想力)」を与えてくれる点で、重要な意義をもっている。

 自由の実質的な価値は、じつは空想(ユートピア)に依存している部分が大きい。「これが自由だ」といえる事柄は、まだ実現していない潜勢的・可能的なものにとどまっている場合が多い。そんな自由の価値を捉えて社会に着床するためには、私たちはまずもって、不可能な空想をたくましく描いていくほかないだろう。イマジネーション(=構想力)が枯渇してしまえば、いかに自由な社会と言えども、自由の実質的価値を担保することができなくなる。自由な社会において、私たちが不自由にしか生きられないという逆説は、イマジネーションにかかわる自由の本質な問題とも言えるのだ。

 ところが現代のリベラリズムは、自由の実質については問わないでいる。リベラリズムの基本的な考え方は、さまざまに異なった善(「善き生」の特殊構想)を追求する人々がいる場合に、なお社会が正統性を保つための、正義の原理を求める点にあるだろう。ある人は「これが善い生き方だ」という。ところが別の人は、「いや、それは違う、別の善い生き方がある」という。そうした対立が生じた場合に、個々の善き生とは独立して擁護される「正義」の原理があれば、社会はその正義の原理によって正統性を保つことができる。このようにリベラリズムは、あくまでも自由の問題を「善き生の対立」という観点から捉えて、個々の「善き生」から独立した「正義」を中核に置くような社会を考える。

 けれども、リベラリストがいう「正義の原理」は、「自由の原理」ではない。正義は、自由を形式的に保障するけれども、自由の実質を実現するわけではない。だから社会がリベラルになっても、私たちは「実質的な自由」をいっそう多く手にするわけではないのである。

 本書で考えてみたいのは、実質的な自由を実現するような社会構想である。私たちは、いかにして、実質的な自由を社会的に実現することができるのだろうか。自由の実質は、善き生の問題であると同時に、社会の統治原理の問題でもある。こうした自由の性質を、現代リベラリズムの地平を超えて扱うことはできないだろうか。現代のリベラリズムは、コミュニタリアニズム(共同体主義)の批判を真摯に受け止めているとはいえ、自由の実質的な価値を論じる思想には、あまり関心を示していない。自由の価値を論じる思想には、アナキズム、マルクス主義、解放神学などの豊かな蓄積がある。かかる思想伝統は、いかにしてリベラリズムに接合することができるだろうか。自由の実質的価値論とリベラリズムのあいだに、いわば化学反応(ケミストリー)を生じさせてみると、どうなるだろうか。本書を貫いているのは、そんな関心である。

 あらかじめ注意を喚起したいのは、本書で提起される実例にまつわる個々の着想は、「自由な社会はいかにして可能か」を考えるうえでの、社会哲学の立場からの仮説的な提言であるという点である。社会哲学のアプローチは、プラグマティックな実効性よりも、個々の着想を体系的な構図につなげるという、思考の営為に重きを置いている。人間は、つねに打算的に動くわけではない。体系的なビジョンに刺激されて、実践の駆動因を得ることがある。社会哲学は、そのための新たなビジョンを模索することに、特別の関心を寄せている。むろん、そこで得られるビジョンは、物事を相関的に考えるための思考を喚起するとしても、そのまま実効的であるのではない。まして本書は、売春や自殺などを道徳的に是認するものではない。実際の政策を考えるためには、 仮想的なアイディアがもたらす意図せざる帰結を十分に考慮して、それぞれの領域の専門家の視点や現状を鑑みながら、より実効的で実践的な熟慮を行う必要があるだろう。

 本書は、最初から理論を前提として書かれたわけではない。執筆に際しては、個々の事例や時事問題と格闘しながら、その都度自分なりのアイディアを出すという思考の日々が続いた。理論を練ったのは最後の最後であり、理論は帰納法的に作られている。むろん理論に照らして、実践の整合性と体系性を志向してはいる。だが個々の具体案には、理論とは独立した着想もある。読者は、本書の理論に納得しなくても、個々の提案の意義を検討することができるのではないか、と私は信じている。また、本書は最初から順に読みすすめる必要はなく、関心のあるテーマに沿ってお読みいただければ幸いである。